新潟の戦争遺跡・戦跡 ~先人たちの足跡~
トップページ
> 出陣通信兵の戦記
出陣通信兵の戦記
11期生・315名の出陣
昭和19年(1944年)11月、村松陸軍少年通信兵学校・第11期生のうち347名がわずか1年足らずで繰り上げ卒業。そのうち32名は陸軍中野学校へ入校。315名は同月中に東京校卒業生達とともに、福岡県門司(現在の北九州市)からフィリピン方面に向けて出港します。
村松校卒業生は摩耶山丸に54名、あきつ丸に88名、神州丸に173名と分かれて乗船。そのうち摩耶山丸とあきつ丸が済州島(現在の韓国)近海でアメリカ軍の潜水艦攻撃によって沈没。摩耶山丸で41名、あきつ丸で75名、合計116名、東京校卒業生と合わせると約170名が、船と運命をともにしたと思われます。
救助された少通兵と攻撃を免れた神州丸は、12月にフィリピン・ルソン島に到着。その後、ルソン島各地の部隊に分散して配属されますが、南方に送り出された他の部隊同様、その多くが戦病死するなど、過酷な状況であったことが体験者の手記によって残されています。
11期生・約470名の出陣
残る第11期生の約470名は、昭和20年(1945年)3月に卒業。国内、中国や満州(現在の中国東北部)、樺太や朝鮮半島などに出征。特に、樺太と満州に配属された者はソビエト連邦軍(現在のロシアなど)の攻撃に加え、終戦後はソ連に抑留されて、シベリア方面などで強制労働を課せられ、多くの犠牲者を出しました。
(昭和18年(1943年)、村松兵舎から千島列島松輪島へ出動した歩兵第158聯隊についても、ソ連の抑留によって強制労働下に置かれたとあります。)
学校の解散
終戦にともない、昭和20年(1945年)8月末までに在校生徒1,600名を帰郷させて学校は解散。陸軍少年通信兵学校の歴史を閉じることになります。第1期生からの戦没者は約810名。その半数以上の約440名は第11期生(東京校・村松校)で、うち約210名がルソン島などで亡くなっています。
参考文献
村松町史編纂委員会『村松町史』下巻
(村松町教育委員会事務局、昭和57年3月31日発行)、709頁、715頁_719頁
大口光威、佐藤善道『村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵』
(2008年10月刊行)、56頁
ページ公開日 2011.05.05
新潟の戦争遺跡・戦跡
軍都村松
村松兵営跡(旧版地形図)
村松兵営跡(空中写真)
村松兵営跡(営門・歩哨舎)
村松兵営跡(記念碑・街並)
練兵場跡
冬の練兵場跡
村松陸軍病院跡
村松公園(忠霊塔・愛宕山)
村松公園(忠魂碑・慰霊碑)
村松城址公園
村松陸軍少年通信兵学校
学校の創設
少年通信兵の生活
出陣通信兵の戦記
村松飛行場の特設
村松の庭訓を胸に
風景
村松公園桜まつり
村松公園の石灯籠
▲
Copyright (C) 先人たちの足跡. All rights reserved.
村松校卒業生は摩耶山丸に54名、あきつ丸に88名、神州丸に173名と分かれて乗船。そのうち摩耶山丸とあきつ丸が済州島(現在の韓国)近海でアメリカ軍の潜水艦攻撃によって沈没。摩耶山丸で41名、あきつ丸で75名、合計116名、東京校卒業生と合わせると約170名が、船と運命をともにしたと思われます。
救助された少通兵と攻撃を免れた神州丸は、12月にフィリピン・ルソン島に到着。その後、ルソン島各地の部隊に分散して配属されますが、南方に送り出された他の部隊同様、その多くが戦病死するなど、過酷な状況であったことが体験者の手記によって残されています。