幻の飛行場
本部を村松小学校に置き、同小学校の外、川内方面等に分散して宿営し、滑走路・飛行機格納場所等の設営に当たった。
村松飛行場は、村松練兵場から菅名地区にかけて、約三○町歩と報ぜられていた。設営に当たっては作業隊の外、村松・五泉郷の学童まで奉仕作業に従事した。
滑走路の形態がほぼ完了したころ、終戦を迎え、実戦に役立てることはなく、また、空襲の試練を受けることもなかった。
【村松町史より転載】(※1)
終戦後、飛行場は元の耕作者に返還され、耕作開始を計画したが、進駐軍命令によって中止され、しかも立入禁止となった。十一月中旬、進駐軍から返還されたが、すでに降雪期に入っており、二十一年春になってから、馬鈴薯を作付する計画が立てられていたと当時の新聞は報じている。(昭20・11・7新潟日報)
【村松町史より転載】(※2)
ページ公開日 2011.05.05